◎金属(metal)を探し当てた人類
金属の英語metalの語源はギリシア語のmetallaoであり、それは「探す」という意味である。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「人間は道具をつくる動物である」と人間を定義している。そこから人間は「ホモ−ファーベル」=ものをつくるヒトともよばれている。
人間は、自然界に存在するさまざまな物(質)を材料にし、それを加工して道具をつくってきた。はじめは、木、動物の骨、土、石を加工していた(新・旧の石器時代)が、やがて自然界に散在する自然金、自然銀、自然銅などを「探し」(metallao)出し、それを加工することを知った。漢字の金という字は地下に埋もれている自然金が掘り出されて光っている状態を示す象形文字であるという。
人類初の金属精錬の発祥の地は、原料鉱石が豊富に埋蔵されており、かつ燃料としての木材も多いメソポタミア北部のアナトリア高原であった。
◎銅――人類が発見した最初の金属
ここで紀元前四〇〇〇年ごろに自然銅が道具に加工され、ついで銅を含む鉱石から銅を採り出す方法が考え出された。やや遅れてエジプトでも、銅を含む鉱石から銅がつくられるようになったが、そのきっかけは、次のような偶然からではないかと推測されている。
エジプトの婦人は、前四〇〇〇年ごろから、化粧用・薬用に銅をふくむクジャク石で目をふちどっていた。あるとき、ある婦人がふとそのクジャク石を木炭火へ落と したところ、その鉱石が還元されて銅玉ができたという。
(平田寛『歴史を動かした発明』岩波ジュニア新書)
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このような偶然の発見から、本格的な銅生産を実用化するまでには、銅鉱石の融点一〇八三度以上の高温を発生させる炉とふいご、溶けた銅を精錬する技術などが開発されねばならなかった。銅製品は、石器に比べて欠けにくいし、変質もせず、長期に使用できたうえに、破損した場合には、溶かして何度でもつくり直すことができた。耐久性と可塑性に富み、再生が可能であるというこの金属の特性を知った人類は、その生活・文化水準を一気に高めることになったのである。
◎人類初の人工的金属である青銅
人類が見つけ出した最初の金属である銅は、前述したような優れた性質をもっているが、石器に比べても劣る点があった。それは柔かすぎることであった。古代の鍛冶屋は、銅鉱石に他の鉱石を混ぜてみたり、溶けた銅にいろいろな物質を混合したりして、ついに錫(すず)鉱石を混ぜるとはるかに強度が高く、道具・武器に適する金属になることに気づいたのではないだろうか。
こうして、人類がつくり出した最初の人工的金属(合金)である青銅が生み出されたのである。銅と錫の混合比は、現在では錫一〇%が最適とされている。青銅時代の製品を分析してみると、三%〜三三%とさまざまである。経験的にしだいに一〇%前後に近いものを多くつくり出していった。
この青銅器の出現もメソポタミアが最も早く(前四〇〇〇〜三〇〇〇年ごろ)、錫鉱石が全く産出しないエジプトでは前二〇〇〇年ごろであった。また、インドではインダス文明期(前二五〇〇年〜)に、中国では殷代(前一六〇〇年〜)に青銅器が出現している。
中国の古書『呂氏春秋』類別篇(秦代の本)に「金柔錫柔。合両柔則為剛」という文がある。ここでいう金とは銅のことで、これは「銅は柔かく、錫も柔かいが、この二つの柔かい金属を混ぜれば、固い金属となる」という意味で、銅と錫の合金が青銅であるということが正確に理解されていたことがわかる。
青銅器は、武器や祭器、工芸品などとして使用されて、いわゆる青銅器時代を現出し、その後の鉄器時代に代わるまでの間、世界の各地で多様な青銅器文化を生みだした。しかし、銅鉱石に比べて錫鉱石の産地が限定されていたため、青銅製品は高価で、ときの支配層の祭器・武器・装飾品として使用されたにとどまり、一般庶民はあいかわらず木製品や石器を農耕具や道具として用いている場合が多かった。そのため、大衆的金属である鉄器が出現するまでは、人間社会に歴史的な大変革をもたらすことはなかったのである。
◎和同開珎・奈良の大仏
金属としての銅・青銅の重要性は、鉄の出現によって大きくその比重を下げたが、貨幣用、鍋・釜などの鋳物用、工芸品用として根強い需要があった。
日本では、七〇八年に武蔵の国秩父から、和銅(日本の銅の意)が献じられたことから、この年、年号を和銅と改元し、それを記念して「和同開珎」が発行された。中国から学んだ銅の製造技術も進歩し、七五三年には世界最大の奈良の大仏も見事に完成させた。
この東大寺の大仏の鋳造には、銅五〇〇トン、水銀二・五トン、金四三八sが使われたという。
このとき用いられた溶解炉が、一九九一年東大寺で発見され話題をよんだ。それを報じた新聞記事を掲げておこう。
世界最大級の溶解炉
奈良・東大寺境内から発見された同寺創建時(七五二年)の鋳造所跡から、新たに直径二・九メートルの溶解炉が見つかった。県立橿原考古学研究所によると、奈良時代の溶解炉としては世界最大級。西塔の相輪のほか、梵鐘などの青銅製品も鋳造したことも考えられるとしている。
平氏の焼きうちで焼失した大仏の頭部を鎌倉時代に鋳造した際に使用した溶解炉とほぼ同じ規模で、推定約六トンの溶解能力。この炉で銅や錫(すず)を溶かし、傍らの土坑の鋳型に流し込んだとみられる。
(朝日新聞一九九一年五月一日)
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その後も銅銭はつくられ続けてはいたが、貨幣経済の発達による流通貨幣量の増大に鋳銭力が追つかず、長らく中国から銅銭を輸入する時代が続いた。宋銭・元銭・明銭などが大量に輸入された。明の永楽通宝などは、今でもコイン店で安く入手することができる。これは、当時の輸入量の多さを示しているといえよう。
しかし、日本の銅の産出量は多く、日明貿易での日本の主要な輸出品の一つにかぞえられていた。
後編に続く
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