No.1 −金− 前編





◎ナイル川デルタは金採掘によってできた!?

 金は極めて微量ではあるが、地球上のほとんどすべての岩石、砂、海水中に含まれている金属であり、空気中や水中においても酸化せず美しい光沢を発している。そのため古代から人間はこれを採掘して利用することを考え出した。私たちも海岸の砂をすくってみると無数の砂金が太陽光に反射して輝いているのを見ることができる。
 古代の人も、まずはこの砂金から金を採ることを学んだ。砂金の採掘は比較的容易で、金の比重(一九・三)が重いことを利用して、ザルで水とともに砂をすくってゆすると、金が底に沈み、採り出すことが可能であった。しかし、これはわずかの金を採るために何千倍もの砂を流さねばならないことを意味している。
世界史上で最も早く、大量に金を採掘しはじめたのはエジプト人であった。有名なツタンカーメン王(在位紀元前一三五八?〜一三四九?)の墓からはおびただしい金製品が出土した。黄金の王のマスク、黄金の椅子、寝具、装身具など四〇〇〇点以上の金製の副葬品が手つかずのまま埋葬されていた。圧巻は、ツタンカーメンの、ミイラを納めた三重の棺がすべて金でつくられており、その金の重さは一一〇sにも達していたことである。この墓に象徴されているように古代エジプトでは大量の金が使われていた。
 ではその金はどこから得られたのだろうか。それはナイル川中流と上流のヌビア地方の砂金鉱床から採掘されていたのである。
 専門家の推定では、この地方の金が枯渇するまでおよそ二五〇キロ平方メートルの土地が深さ二mまで掘られたという。ナイル川デルタ地帯はこの膨大な残土によって形成されたといわれるのも、あながち否定しえないのである。
 紀元前二〇〇〇年ごろには、このヌビア地方の金は採りつくされたため、さらに上流の金鉱脈、とりわけ世界最古の金山といわれるビシャリー金山が開発され、金生産の中心地となった。ビシャリー金山は以後プトレマイオス朝エジプト王国やローマ帝国の権力者によって生産が続けられた。クレオパトラやローマの貴婦人たちの身体を飾った金製のアクセサリーはこの金山の金でつくられたものであった。

◎大帝国はまた黄金帝国でもあった

古代オリエントからインド・中央アジアを統一して大帝国を築いたアケメネス朝ペルシア帝国は、必然的に古代世界の産金地帯をその支配下におくことになった。そのため膨大な量の金がペルシアに集まった。アケメネス朝初代の王キュロス一世が金製の板に書いた宣言文も発掘されている。世界で最初の鋳造貨幣(金貨)をつくったリディア王クロイソスは、神殿を黄金の装飾品で飾りたてていたとギリシアの歴史家ヘロドトスは記述しているが、ペルシア帝国はリディアを滅ぼすとともに、これらの黄金をも奪った。
 地中海世界を統一したローマ帝国もさきに触れたエジプトのビシャリー金山などを支配下において、これまた大量の黄金を集積し、貨幣としても流通させた。今までに南インドで多数のローマ金貨が発見されているが、これはローマの交易活動の広がりを示している。
 目をアジアに移してみよう。ローマ帝国とシルクロードを通して交易関係をもっていた東アジアの大帝国、漢帝国でも同じことがいえる。漢帝国は征服した周辺地域を郡県制によって直接支配する一方で、漢に服属した周辺諸民族の首長に対して朝貢を求めるとともに、王や侯といった爵位(しゃくい)や将軍などの官位を与えてその首長の権威を高め、外敵からの保護と恒常的な通商を保証した。
 これは冊封(さくほう)体制とよばれているが、光武帝が倭の奴国王に贈った「漢委奴国王」の金印は、この爵位とともに与えたものであり、日本以外からも「漢匈奴悪適尸遂王」とか「漢保塞近群邑長」とかの金印が発見されている。
 漢帝国は工芸的にも優れた装飾のついた金印をあちこちにくばって、大帝国の権威を高めることに利用していたのである。このように漢の帝室には多くの金が集められており、皇帝が死ぬとその遺体は玉片の四隅を金の糸で縫い合わせた「金縷(る)玉衣」を着せて埋葬された。
 ローマ帝国滅亡後はヨーロッパでの産金活動は衰えた。それは自給自足の封建社会にあって通商活動が振るわなかったことに符合していた。このころ、金は通商を堤励したイスラム帝国に集まっていたのである。産金も減少し、商業活動も停滞したため、通商で金を獲得することもままならなかったヨーロッバの人たちの金への渇望は錬金術を盛んにし、世昇の未知の地域に黄金郷(エル・ドラド)を求める衝動を強め、それがやがて大航海の原動力のひとつになっていくのである。
 大航海時代とともに出現したヨーロッパの強国・絶対主義諸国は重商主義政策をとって、金・銀を国家の富として蓄積することに努めた。各国は争って金山.銀山の開発や、輸出を奨励し、輸入を制限することによりその差額を金・銀で確保する貿易差額主義などの政策を採用した。その後も一九世紀の大英帝国、二〇世紀のアメリカなどがそれぞれの時代に世界の金の大半を集積することになる。このように、世界史上の「大帝国はまた黄金帝国でもあった」のである。

◎大航海の原動力は黄金であった

 コロンブスは大航海に出発する前、マルコ=ポーロの『世界の記述(東方見聞録)』を熟読し、そのなかの黄金の国ジパングの記述の部分には何か所ものメモを書き記していた。
 一五〇三年、彼がスペイン国王にあてた報告書には、「金はもっとも価値あるものであり、金こそ宝であります。これをもっている者は、この世で欲することは何でもでき、天国へ魂を送りこむことができるような地位にさえ達しうるのであります」とあった。コロンブスはエスパニョーラ島(ハイチ島)で金と香料を求めたが、香料は見つからず、金の産出もわずかであったため、収益をあげるには奴隷貿易以外にないと考え、インディオの捕獲に走った。
 当時中央集権を強化しつつあった国王は、権力の基礎となる官僚や常備軍を維持する財源を必要としていたから、スペイン王がコロンブスを支援したように、富(黄金)を求めて大航海を推進したのである。
 コロンブスにとっては夢に終わった大量の金の獲得を現実のものにしたのが、スペインによる、アステカ・インカ両帝国の征服であった。一五三三年、わずか一八六人の兵と火縄銃一三丁でインカ帝国に侵入したピサロは、インカ帝国の国王アタワルパを奸計をもって捕え暗い石の部屋に幽閉した。アタワルパは部屋一杯の金・銀を与えるから釈放してほしいと申し出た。全インカ帝国から精巧を極めた黄金製品が運ばれてきた。スペイン人はそれらをすべて延棒にして積み上げた。約束の量が近づくとピサロは王の処刑を考え、キリスト教に改宗すれば火刑を減じて絞首刑にすると申し入れた。インカ帝国では火刑にされた魂は永久に死滅するとされたので、アタワルパはキリスト教に改宗後絞首刑で殺された。
 こうしてスペインはアメリカ大陸の広大な部分を獲得して、メキシコ・ペルーなどで大量の金・銀を採掘した。
 この鉱山労働や大農場などでインディオを酷使したため、インディオは各地で激減し、アフリカの黒人を連れてきて補わねばならなかった。ペルー高原のポトシ銀山では、一五四五年から五〇年間に四億ドルの銀を産出して繁栄を誇ったが、その繁栄をささえたのもこれらインディオとアフリカの黒人たちの悲惨な労働であった。こうして獲得された良質で豊富な金・銀は、スペインの「銀船隊」によってヨーロッパに運ばれた。
 一五二一年から一六六〇年までのスペインヘの流入量は、公的なものだけでも金二〇〇トン、銀一・八万トンに達した。これらの金・銀の多くはヨーロッパで貨幣用貴金属として使われたため、ヨーロッパでは貨幣価値が一挙に三分の一に下落し、物価を騰貴させた。これが価格革命で、商工業の発展を大いに刺激するとともに、地代を相対的に低減させ、農民の地位の向上(農奴解放)をもたらすなどヨーロッパの政治・経済に大きな影響を与えた。

□参考文献
『金・ブラチナの歴史と役割』日本金地金流通協会

後編に続く





 
   このページは著者及び出版社の承諾を得て、掲載しております。  

■■本の紹介■■

 古代エジプトの金の採掘から、現代の太陽電池の開発まで、53の「物」の歴史についての考察。

 書 名:『物が語る世界の歴史』
 著 者 :綿引 弘(わたひき ひろし) 
 出版社:聖文新社
 定 価:2330円+税
 


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