No.8 −鉄− 中編





◎秦の統一は鉄によってもたらされた

 殷代と周代の中国は基本的には都市国家(邑)のゆるやかな連合国家の時代であった。周代の後半の春秋・戦国時代は、戦乱と混乱の時代であったが、そのなかで統一国家の形成が準備されていた時代でもあった。春秋時代の紀元前六〜五世紀に始まった鉄器の使用は、それまで不可能であった黄土台地の開墾を可能にした。それまで水のない黄土台地は荒地のまま放置されていたが、降雨直後に鉄製農具で深く耕すことによって、土に水分を保(た)もたせることができるようになった。この農法(乾地農法Dry Farmingという)の普及と牛に犂(すき)を引かせる牛耕の発達によって、農業生産力は大きく増大した。
 このような農業生産力の増大によって古い共同体的な農業は大きな影響を受け、家族による土地の私有も始まるようになった。新しく黄土台地に開墾された農地は、大規模な堤防や運河による灌漑に支えられて維持された。戦国の諸侯たちは、堤防や運河をつくって農地と農民を管理し、自己の権力を増大させていった。治水灌漑などの大事業は強力な権力者の手によって初めて可能になるものであり、地方の小都市国家と農民はどうしても中央の強力な力に依存しなくてはならなくなっていった。
 こうして郡県制が生まれたが、郡県制の県は「地方は中央に懸(かか)る(頼るの意)」から生じた言葉であった。こうして中国は中央集権的な統一国家の形成に向かって歩みはじめたのである。春秋・戦国時代の混乱のなかで準備されていた中国の最初の統一は秦によって達成されたが、秦は大量の鉄製の工具を用いて、かずかずの治水灌漑事業を行って、農業生産力を増大させ、その国力で他の六国を圧倒したのである。秦が鄭国に渭水盆地につくらせた鄭国渠や成都の岷(びん)江の分水堤などは、二〇〇〇年を経た現在もそのまま使用されているほどである。しかも、中国の鉄は、炭素含有量が最高で、融点が最低の鋳鉄であった。これはヨーロッパでは、その後二〇〇〇年間もつくれなかったものであった。
 秦のあとの漢代の中国でも、鉄の生産は盛んで、鉄商人は塩商人とならんで巨大な利益をあげた。前漢の武帝は、たび重なる外征がもたらした財政危機を打開するため、塩と鉄と酒を国家の専売にした。しかし、これは民衆の生活を苦しめたため、次の昭帝は各地の識者を集めて、専売の是非について討論させた。このときの論争集が「塩鉄論」(一〇巻篇)として残されている。

◎古都デリーは鉄柱に由来する

 インドは古くから良質の鉄を生産することで有名であった。アレクサンダー大王がカイバル峠を越えてインドに入ったとき、インドの王は大王に一四sの鋼塊を献上したことが史書に記されている。この鋼鉄は炭素○・〇四〜一・七%を含む鉄のことで、焼き入れ、焼きもどしによって強度と靭性を増す鉄である。
 インドのデリーに行った人が必ず訪れるといわれるデリーの代表的な遺跡に、クトゥブ−ミナールとクワットル−イスラム−モスクがある。これらはヒンドゥー勢力を破って奴隷王朝を創設した(一二〇六年)アイバクによって建てられたミナール(塔)とイスラム寺院である。アイバクは、この地域にあった合計二七のヒンドゥー教・ジャイナ教・仏教の寺院を徹底的に破壊し、それらの石材を持ち寄ってこのモスクを建設した。
 このインド最古のイスラム寺院の中庭に高さ7mの鉄柱が立っている。これもアイバクが破壊した寺院にあったものを持ってきて建てたものであるが、四世紀のグプタ朝のチャンドラグプタ二世(超日王)のころにつくられたものと考えられており、科学者の分析によると、伝統的な土法製鉄法でつくった錬鉄(炭素○・二〜○・○二%を含む軟鉄のこと)の多数の小塊を鍛接(たんせつ)してつくられたもので、鉄の純度は一〇〇%に近く、千数百年間の野ざらしにもかかわらず全くさびがついていない。当時の製鉄技術の高さには驚かされる。
 この鉄柱はヒンディー語でデリー(不安定なるものの意)とよぱれ、この名がそのまま首都デリーの名になったのである。デリーはその後、ムガル帝国から現代に至るまでのインドの首都であった(イギリスから独立後は郊外にニューデリーをつくって、そこを首都にしているが)。
 十字軍に参加したヨーロッパの騎士がイスラム軍の剣の優秀さに圧倒され、それをヨーロッパに持ち帰ったが、どうしても同じものをつくることができなかった。これらの剣はシリアのダマスクスでつくられたのでダマスクス剣とよばれた。ダマスクスの刀剣鍛冶は、インドから輸入した鋼鉄でこれらの名剣をつくっていた。このインドの鋼鉄は炭素含有量が平均一・六%という超高炭素鋼であり、ダマスクス剣には「天(あま)の川」のような波紋が浮き出ていた。この鋼(ウーツ鋼とよばれた)の解明がなされたのは実に二〇世紀に入ってからであった。一九七六年にアメリカ・スタンフォード大学の研究陣が、ウーツ鋼と同じ超高炭素鋼(Ultra-high Carbon Steel)を開発したが、この最新の技術を古代のインドの鍛冶師たちは、とうの昔からもっていたのである。

◎鉄が世界史の「基軸時代」を生み出した

 ドイツの哲学者ヤスパース(一八八三〜一九六九)は紀元前二〇〇年までの間に、中国からギリシアまで、互いになんの連絡や交流があったわけでもないのに、人生や社会について深く思索した偉大な人びとが何人も出たことに注目して、この時代を世界史(人類史)の「基軸(きじく)時代」と名づけている。ギリシアではイオニアのミレトスを中心として、ターレスやヘラクレイトス・ピタゴラスなどが自然の根元を探究する自然哲学をおこした。やがて探究の対象は人間社会に向けられ、ソクラテス・プラトン・アリストテレスのいわゆるギリシア哲学が生まれた。パレスティナ地方ではユダヤ教が、イランではゾロアスター教が、インドではバルダマーナによるジャイナ教とシャカによる仏教が誕生している。中国では孔子・孟子・老子・荘子・荀子などの諸子百家が成立し、儒教や道教の基(もと)が築かれた。この「基軸時代」に生まれた宗教や思想は、今日まで受け継がれている。
 ではなぜこの時代に、各地に偉大な思想家が出現したのだろうか。この答はそう簡単には出ないのであるが、その一つは、これらの人びとの活動した時代のなかに見いだされそうである。ギリシアではマケドニアの統一前の時代、インドではマウルヤ朝による統一前、中国では秦による統一前の春秋戦国時代にあたる。いずれも都市国家や小国家が分立・抗争し、統一国家の形成に向けて、新しい国家・社会の編成が進んでいた。これはまさに前述してきたように、鉄器の出現と普及を大きな原動力として社会が動き始めた時代でもあった。  それまでは精神面で、神話や伝説が人びとの心を支配し、神官や王たちが精神生活を規制していたのであるが、この「基軸時代」になると、自然の威力や、人間の無力さ、悪や罪について深く考えるようになり、解脱(げだつ)や救済への念願をいだき、「人は何のために生きるか」「人生はいかに生きるべきか」について思索し、探究するようになったと考えられる。このように、この時代の人びとは新しい社会のあり方や自分の生き方を求め、社会全体が活気と苦悩に満ちていた。こうしてこの時代に、たがいに交流はなかったが、東西各地に偉大な思想家の出現を見たのである。



後編に続く




 
   このページは著者及び出版社の承諾を得て、掲載しております。  

■■本の紹介■■

 古代エジプトの金の採掘から、現代の太陽電池の開発まで、53の「物」の歴史についての考察。

 書 名:『物が語る世界の歴史』
 著 者 :綿引 弘(わたひき ひろし) 
 出版社:聖文新社
 定 価:2330円+税
 


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