No.26 −鉄道− 前編





◎鉄道の前史――レールと鉄道馬車

 鉄道が生まれるまでには、レール(通路)と動力の二つの面の進歩・発展の歴史があった。レール使用の最も古い記録は、一五三〇年のドイツ人ハーゼルベルグが著した『一般鉱山法律の起源』なる本のなかに、「ハルツ鉱山で木製のレールの上を走る荷車で鉱石を運んでいる」との記述である。この荷車は人間が動かしたが、その後、馬に引かせる荷車も現われた。一八世紀中ごろには、木製に代わって、イギリスで鋳鉄レールが考案された。産業革命が始まって、いわゆる「鉄と石炭の時代」が到来すると、イギリスでは石炭を運搬する鉄道馬車が盛んに活躍するようになった。
 日本でも一八八二(明治一五)年に東京市街鉄道馬車が新橋・日本橋間で開通した。二頭立ての馬が、二〇人から三〇人の乗客を乗せた車両を引き、人びとの人気を博した。鋳鉄レールは、製鉄技術の進歩につれて、錬鉄レールから鋼鉄レールヘと進歩していった。


◎蒸気機関車の出現

 イギリスでニューコメンやワットによって蒸気機関が発明され実用化されて以来、鉄道馬車を蒸気で動かそうと考えるのは自然のなりゆきであった。イギリス人のW・マードックに続いてトレビイシックが、蒸気駆動車を考案した(一八〇一年)。これは軌道車ではなく、一種の蒸気自動車で道路を時速一三〜一五qで走った。一八三一年にガー二ーとハンコックが蒸気自動車の「オートマン」を開発し、それで、物資の運搬業を始めた。しかし、重い蒸気機関と大量の石炭を積んでいたため、舗装されていない道路はたちまち損傷した。そのため高額の道路使用料が課せられた。そのうえ、猛烈な煙を出し、石炭の燃えガラを路上に落としながら走ったことと、ブレーキの効きが悪かっため危険であった。ついに当局は「赤旗条令」なるものを制定した。それは、この蒸気自動車の前には必ず赤旗や明り(ランタン)をもった人間が先に立って、通行人に警告しなければならないというものであった。
 先述のトレビイシックは、一八〇四年初めて機関車をレール上で走らせることに成功した。一八一一年にはブレンキンソップが、一八一三年にはヘドリーが、より改良された機関車を開発した。ヘドリーの機関車は長く石炭の輸送に使われていた。このような開発競争が続くなかで、一八二九年、リバプールのレインヒルで行われた蒸気機関車の懸賞競争で、ジョージ=スティブンソンのロケット号が時速四四qを出して優勝した。これを受けて、一八三〇年リバプールとマンチェスター間に世界で最初の公共の鉄道が営業を始めた。この開通式で走った機関車が来賓として招かれた、代議士のW・ハスキッソンをひき殺す事故を起こしてしまった。マンチェスター・リバプール間に世界最初の営業用鉄道が敷かれたのには次のような事情があった。
 産業革命の進展でマンチェスターはイギリス綿織物生産の中心地として飛躍的に発展した。しかし、イギリスの綿織物業はそのすべての原料を輸入に頼らざるをえなかった。そのため輸入綿花を貿易港リバプールからマンチェスターに、綿製品をマンチェスターからリバプールヘ運ぶ必要があった。この間には一七六七年に既に運河が開かれていたが、それでもさばききれない運搬量があったため、鉄道が導入されたのである。
 当時スティブンソンは次のように語っていた。

 鉄道はこの国の他のすべての輸送方法にとって代わるようになるだろう。郵便車は鉄道で動くようになり、鉄路は国王とそのすべての臣民にとって偉大な公道になるだろう。働く人々にとって、脚で歩くよりは鉄道で旅行する方が安くなる時代が近づいている。

(R・J・フォーブズ著・田中実訳『技術の歴史』岩波書店)


◎鉄道狂時代の到来と鉄道王ブラッシー

 同じ一八三〇年、アメリカ人P・クーパーがトラサム号を開発して、ボルティモアとオハイオ間を走らせたのが、アメリカの鉄道の端緒となった。こうして、イギリス・アメリカで実用化された蒸気機関車による鉄道は、急速に全世界に広まっていったのである。イギリスでは続々と鉄道会社が設立され、一八四〇〜五〇年代は「鉄道狂時代」といわれるほど猛烈な勢いで鉄道が敷設された。
 スティブンソンも自ら機関車工場と鉄道会社を設立して、この鉄道狂時代をリードした。スティブンソンは、レンガエ場と石切り場の経営者であったトーマス=ブラッシーに鉄道の架橋建設を請負わせた。ブラッシーはこれをきっかけに、自らも鉄道建設に参入し、合理的で能率的な請負制度を整備して海外の鉄道建設にも進出した。フランス・スペインの鉄道を手がけ、一八五三年には鉄道による国内統一を考えていたサルジニアのカブールの招きでイタリアの鉄道建設にも参加した。
 サルジニアによるイタリアの統一の進展とともに、ブラッシーによるイタリアの鉄道も延びていった。このサルジニアが、フランスのナポレオン三世の支持をえるための布石として、一万六〇〇〇の兵を送ったクリミア戦争に際しても、ブラッシーはクリミア半島にわずか六週間で三二qの鉄道を敷設してイギリス・フランス軍を勝利に導いた。
 ブラッシーはイギリスの鉄道の三マイルに一マイル、フランスの四マイルに三マイルを建設し、全世界の鉄道の多くと何らかの関連をもち、鉄道王といわれた。


◎インド鉄道の三つのゲージ

 ヨーロッパ列強によるアジア・アフリカの植民地化は鉄道によって行われたといわれる。列強は、工業製品を海港場から内陸部に売りさばき、鉱物資源などの原料を海港場に運ぶために、盛んに鉄道を敷設した。イギリスの資本家が自己の利益を追究するために、いかに勝手にかつ無計画にインドに鉄道を敷設したかを、鉄道の路線幅の問題で見てみよう。
 私たち日本の鉄道の線路幅は、新幹線ができるまで全国均一であった。もちろん鉱山用等特殊な例外はあるが、今でもこの点は守られており、それが当然のこととされている。しかし、世界でも有数の鉄道の発達した国であり、その歴史も鉄道創始国のイギリスにつぐ古さを誇るインド鉄道の線路幅が一・六七六mの広軌二八、五〇〇q、一mの標準軌二五・五〇〇q、○・七六二と○.六一〇mの狭軌四、三〇〇qと、おもに三つのゲージに分かれているのには驚かされる。それも一つの線路の途中で何段階かにかわるという。そのたびに乗客は列車を乗り換え、貨物の積み換えをしなければならず、現在に至るもインドの国内の流通、とりもなおさずインド経済の発展を大きく妨げているのである。
 そのうえ、インドの鉄道が、インド国内の人の移動、物質の流通に奉仕するためつくられているかというと、先にも触れたように、そうではなく、インド亜大陸の海港場から奥地へのルートが多いという変則的な形態になっていることも、インド経済発展の障害になっているのである。インドはイギリスから独立したが、このような形でイギリスのインド支配の遺産は今も深くインド社会を蝕(むしば)んでいるのである。



後編に続く




 
   このページは著者及び出版社の承諾を得て、掲載しております。  

■■本の紹介■■

 古代エジプトの金の採掘から、現代の太陽電池の開発まで、53の「物」の歴史についての考察。

 書 名:『物が語る世界の歴史』
 著 者 :綿引 弘(わたひき ひろし) 
 出版社:聖文新社
 定 価:2330円+税
 


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