No.4 −銀− 後編




◎メキシコ銀と一条鞭法・地丁銀

 史上初の世界周航の偉業を達成したマゼラン一行が、フィリピンのセブ島に到着したのは一五二一年であった。マゼランはここで原住民に殺された。その後一五四二年、ビラロボスの率いるスペイン船隊がメキシコを出発し、翌年ミンダナオ島ついでサコール島に到着した。ビラロボスはここでこの地域をスペインの皇太子(後のフィリップ二世)の名に因んでフィリピンと命名した。一五七〇年レガスピの率いるスペイン艦隊がルソン島を占領して、マニラをフィリピンの中心地(首府)と定めた。やがてマニラは、スペインの東洋貿易の唯一の拠点として発展しはじめた。中国船や琉球王国船や日本の堺の船などが来航して盛んに取引を行った。堺の豪商で納屋衆(堺の政治を握っていた商人たち)の一人助左衛門はフィリピンからルソン壺を輸入して巨富を得、「ルソン助左衛門」とよばれていた。
 しかし、なんといってもマニラ交易の中心は、生糸・絹・陶磁器をもたらす中国商人とスペイン人との取引きであった。スペイン船は、メキシコのアカプルコからペルーのポトシ銀山(現在はボリビアに属する)などで生産された銀を積んでマニラに来航して、中国船のもたらした前記の品々と交換した。
 当時の中国の明朝は、朝貢貿易や勘合貿易などの特許貿易以外の外国貿易を禁じ、一六世紀にポルトガル人・スペイン人が来航して明に通商を求めたときも、最初これを禁じた。しかし、密貿易と倭寇の活動に苦しめられるようになると、明は貿易を許した。それ以来、マニラでの取引を中心に、スペインとの交易が盛んになり、メキシコ銀が大量に中国に流入した。そのため、明ではそれまでの銅貨に代わって銀貨が流通し、それは広く農村にまで及んだので、唐代・宋代以来進展していた貨幣経済は一層発達した。
 明は、繁雑になっていた各種の税を一条(一本)にまとめて、銀で納入させる新たな税法である一条鞭法を施行した。これは唐代の両税法以来の税制の大改革で、税は簡素化し、徭役(賦役)も解消された。
 明を倒した清は、はじめ一条鞭法を受け継いでいたが、四代の康煕帝のとき、盛世滋生人丁といわれる措置をとった(一七一一年)。これは中国の安定と経済発展により税収が増大していたため、この年の戸籍上の人口二四六二万人をもって丁銀(人頭税)を負担すべき人口として固定し、それ以後生まれた人に対しては戸籍(人冊)はつくるが、丁銀は課さないこととしたものである。
 ついで擁正帝のとき、丁銀の負担をすべて地銀のなかにくり入れ、銀で納入させる地丁銀制を実施した。これによって永年中国の税収源の一つであった人頭税が廃止され、民衆の税負担は軽減された。  この時期の清は、政治的安定と経済的発展で人口が増大しつつあったが、地丁銀制の実施で人頭税の課税のおそれがなくなったため、壮丁(成年男子)の過少申告がなくなったことも戸籍上の人口を急増させた大きな要因であった。
 当時世界一の銀産国はメキシコであったが、メキシコに次ぐ生産額を誇っていたのは日本であった。江戸幕府が行った東南アジアとの朱印船貿易(一六〇四〜三五年の間に三五三隻が渡航した)での日本からの輸出品の中心は銀であり、日本はこの交易に年間一五万キロの銀を使用したと推定されている。これは当時の世界の銀の総生産額四〇万キロの実に三分の一強に当たる量であった。
 室町初期から開発された石見銀山(現島根県大田市)は、この朱印船貿易の行われていたころが最盛期で、その地は江戸幕府の直轄領とされ、銀山奉行がおかれ、そのもとで盛んな生産活動が展開されていたのである。

◎ニューディールと銀政策

 高校の世界史の教科書にはほとんど記述されてはいないが、F=ルーズベルトの行った恐慌対策であるニューディール政策の一つに銀政策があった。ルーズベルトは銀を基礎とする通貨の大量発行を行って、恐慌で急落した諸物価の引上げと、それによる景気の回復をはかろうとした。また低迷する銀価を引上げて、当時世界最大の銀本位国中国の購買力を増進し、アメリカの輸出を促進することで景気を回復しようとした。そのためにルーズベルトが行ったのが銀政策であった。アメリカ政府は一九三四年に銀買上法と銀国有令を出して、国内外で大量の銀の買上げに乗りだした。この政策の背景にはアメリカの銀業者の利益を代表する「銀ブロック議員」の圧力が働いていたといわれる。
 アメリカの銀買上げが始まると世界市場で銀価は急騰し、中国銀が大量に銀価の高いアメリカに流出し、中国の幣制は混乱して、深刻な銀恐慌をもたらし、ただでさえ恐慌に苦しむ中国経済の危機はいっそう増大した。結局ルーズベルトの銀政策は、その意図を実現することができずに失敗に終わった。

◎中国の幣制改革と日本の華北侵略

 当時の中国は国民党と共産党が一九二七年の第一次国共合作の決裂以来、いわゆる「十年の内戦」と後によばれる激しい戦いを展開していたうえ、中小軍閥間の争いも絶えなかった。国民党の蒋介石は、深刻な銀恐慌を打開するため、一九三五年一二月、イギリス・アメリカの援助を受けて幣制改革を断行した。これは従来の銀本位制を廃止して、政府系銀行が発行する「法幣」を、全中国の通貨として流通させるようにしたものであり、中国の経済的統一を促進し、蒋介石政権を強化するのに役立った。
 しかし、中国の一般民衆は自分たちの保持していた銀を法幣と交換したわけで、蒋介石は一挙に莫大な銀を国民からかき集めることができた。そのうえで、一九三七年の日華事変を契機に国民政府は法幣を乱発するインフレ政策をとった。通貨発行量は一九三七年を一〇〇とすると一九四四年には一三一万八五五九となった。実に一・三万倍の量である。この大インフレーションによって、銀のかわりに得た法幣の価値は紙片にすぎないほど下落した。蒋介石の国民党による国民収奪がどのようになされたのかはこの一事をみても明らかであろう。これは、第二次大戦後国民党が急速に民衆の支持を失っていく大きな要因のひとつであった。
 イギリスの財政担当者リース=ロスは、蒋介石援助の話し合いのため中国に行く前日本に立寄り、日本政府に共同で中国を援助することを申し入れた。これに対し日本は、「このようなシナに対する借款供与に参加する余裕は財政当局はとても見出すことができなかったので、リース=ロスの計画に参画するということは考えようもなかった」(重光葵『外交回想録』毎日新聞社)のである。当時の日本には中国に借款を与える余裕すらなかった。一方で、英・米・仏・独などは日本とは対照的に多額のクレジットを設定して中国に経済的進出をしており、これは日本の資本主義の弱さを暴露したできごとであった。
 日本は、第一次大戦後の戦後恐慌とそれに続く関東大震災(一九二三年)で受けた打撃も回復していないところへ、一九二七年には金融恐慌に襲われた。そこに世界恐慌の影響が加わり、もともと国民が低い生活水準に抑えこまれていたため、国内市場が狭かった日本資本主義は深刻な危機に陥った。こうして日本の資本家は日本の資本主義の弱さを軍事力で補う、いわゆる武力行使による中国への経済的進出を望むようになったのである。  日本政府は中国の幣制改革の断行に対して、直ちに強硬な反対声明をだし、「北支の現銀輸送防止に実力発動をも辞せず」と積極的に幣制改革を妨害する方針をとると同時に、「今ヤ北支那自治ナイシ分離運動ハコレガタメニサラニ拍車ヲカケラレ、帝国ノ抱懐スル北支工作ヲ断行スルニ絶好ニシテマタトナキ機会ヲ現出セリ」(外務省『日本外交年表並重要文書』原書房)として北支分離工作に拍車をかけることになったのである。北支分離工作とは華北を国民党の支配から切り離して、そこに日本の傀儡(かいらい)政権を樹立する工作のことであり、実際に、一一月二五日には冀東防共自治政府、同三〇日には冀察政務委員会という二つの傀儡(かいらい)政権をつくりあげた。
 この.一九三五年は、中国共産党の率いる共産軍が大西遷(長征)を進めていた年であり、共産党はその途中で「全国民が一致して抗日救国に立ちあがる」ことをよびかけた「八・一宣言」を発していた。幣制政革を契機とする日本の露骨な中国侵略に対して、中国では内戦の停止と抗日民族統一戦線結成への世論が急速に高まった。日本は中国内の抗日団結を恐れ、一気に中国を屈服させることを意図して、一九三七年七月七日、蘆溝橋事件を起こして、中国への全面的侵攻、いわゆる日中戦争を開始したのである。


次回は「銅・青銅 前編」です。




 
   このページは著者及び出版社の承諾を得て、掲載しております。  

■■本の紹介■■

 古代エジプトの金の採掘から、現代の太陽電池の開発まで、53の「物」の歴史についての考察。

 書 名:『物が語る世界の歴史』
 著 者 :綿引 弘(わたひき ひろし) 
 出版社:聖文新社
 定 価:2330円+税
 


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