No.24 −運河− 前編
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◎「南船北馬」を結んだ大運河の建設 およそ四〇〇年間におよんだ魏晋南北朝の分裂時代に終止符をうち、久々(ひさびさ)ぶりの統一王朝、隋晴をたてた文帝とその子煬帝は、揚子江と黄河を結ぶ大運河を建設し、穀倉として経済の中心地となっていた江南と、政治の中心地である華北とを直接結びつけた。 中国では古くから「南船北馬」ということばに示されているように、江南では水運が発達していたが、華北の運輸は馬に頼った。この陸運の不便を解消するために戦国時代から各地に運河が掘られはじめ、漢代には黄河から長安へ、また南の開封への運河が開通していた。 その後魏晋南北朝の争乱期にこれらの運河は見すてられて荒廃していた。文帝は揚子江の揚州と淮(わい)河の楚州を結ぶ山陽瀆(とく)を完成させ、ついで場帝が黄河から北東に延びる永済渠、淮河と黄河を結ぶ通済渠、揚州から銭塘江の余江(現在の杭州)を結ぶ江南河を開通させた。こうして北の黄河と南の揚子江が結ばれることになった。 記録によれば通済渠の建設には河南・淮北一帯の一〇〇万人の農民たちが動員され、それはわずか五か月間で完成している。このことはこの運河もまったく新しく開削されたものではなく、漢代からあった旧運河を改修したり、つなげたりしてつくられたものであることを示している。大運河周辺の農民たちは、運河完成後は、運河を通る船を堤(つつみ)にそって曳(ひ)く労役に動員されることになった。 煬帝はこの運河の完成を待って竜船をはじめとする多くの豪華船を建造させ、それに大勢の美女を乗せ、酒宴を催しながら江南への豪遊を行っている。煬帝はやがて、三回にわたり朝鮮の高句麗遠征を実施したが、この大運河は、食糧をはじめとする物資の輸送に大きな役割を果たした。 大運河はその全長実に二五〇〇qにも達し、日本からの留学生(遣唐使ら)も、この水路を通って長安入りをしており、その経済的・文化的役割ははかり知れないものがあった。 運河はその後いくたびか改修されたり航路を変更されたりしながら、今日もなおその生命を維持している。中華人民共和国ではもっと幅を拡張して、二〇〇〇トン級の船も通えるようにする工事を今も進めている。 ◎水・船、山を登る――ロックゲートの考案 世界史で最も古い大規模な運河としては、紀元前五〇〇年ごろ、ペルシア帝国のダレイオス一世によって開削されたといわれる紅海とナイル河を結んだ運河があった。ローマ帝国でも、中世ヨーロッパでも運河はつくられたが、いずれも平地にできた水平運河であった。高低のある地形に運河をつくるためには、ロックゲート(間門)の考案を待たなければならなかった。 ロックゲートは一四世紀ごろ、中国とオランダで出現したとされているが、観音開きの本格的なものを発明したのは、レオナルド=ダ=ビンチであったといわれる。彼は一四九五年に、そのスケッチを描いている。彼は実際に六つのロックゲートを完成してミラノの各運河を結びつけた。 絶対王政国家は、重商主義政策をとって、商工業の発達を促した。そのため物資の流通の便のための運河開発に力を注いだ。その代表的なものがフランスのルイ一四世が建設した地中海と大西洋を結ぶランドック運河である。これは南フランスのミディ地方を通るので、ミディ運河ともいわれている。ミディ運河は、地中海側から七四のロックゲートによって海面より二〇〇mの高さまで上がり、二六のロックゲートによって、大西洋に流れ出すガロンヌ川へ降りる全長二四〇qの大運河である。絶対王政を批判した啓蒙思想家のボルテールも、この大事業を「二つの海を結んだランドック運河こそ、ルイ一四世時代の最も輝かしいモニュメントである」と大いに称賛している。 フランスには遅れをとったが、イギリスでも経済活動の活発化で、大量輸送の必要から運河が注目をあびた。ブリッジウォーター侯はワーズリーの炭坑とマンチェスターをつなぐ運河を建設し、それが大変有効だったため、イギリスに一大運河建設ブームが起きた。 これらの運河による物資の輸送力の増強は産業革命の推進力となった。この時期はヨーロッパ・アメリカでも運河建設は活発で、ロシアでドン川とヴォルガ川をつなぐ大運河がつくられ、アメリカでは五大湖の一つエリー湖を大西洋につなぐエリー運河がつくられた。 ◎世紀の大事業――スエズ運河の建設
これは、のちの日本資本主義発展の立役者となり、現在の一橋大学の創設者ともなった渋沢栄一の『航西日記』の一節である。渋沢はフランスのナポレオン三世の招待でパリの万国博覧会に出席するため、一八六七(慶応三)年、スエズを鉄道で通過した。 若き渋沢をこのように感嘆させたスエズ運河建設には、長い歴史があった。 一七九八年ナポレオンはエジプト遠征の際二〇〇人の学者を伴(ともな)って、エジプトの地理・歴史を調べさせた。ナポレオンはスエズ運河にも関心を寄せ、工兵隊技師ルペールに、この地の調査を命じた。その報告書は、地中海と紅海との水位の差も障害で困難であるというものであった。後にレセップスが、ここに運河をつくろうと考えたのは、彼が、このルペールの報告書を読んだのがきっかけであった。レセップスはエジプト太守のサイド=パシャの同意をとりつけ、万国スエズ運河会社を設立して、一八五九年から建設に着手した。 炎天下の給水もままならぬ荒地での難工事で、農村から強制的に動員されたエジプト人労働者は病気や事故で、次つぎに倒れ、完成までの一〇年間で、実に一二万人の生命が失われたのである。 ときのエジプト太守のイスマイル=パシャはこの開通を記念して、有名なイタリアの作曲家ベルディに歌劇『アイーダ』の作曲を依頼した。これはスエズ運河の開通式で上演されたが、凱旋の場で鳴り響く有名なエジプト勝利の歌はのちにエジプトの国歌となった。 幅二二m、深さ八m、全長一七四qの大運河の完成は、従来のアフリカ南端に回る、ヨーロッパとアジアの航路を実に六〇〇〇qも短縮することになり、現在に至るも、世界の海運に大きく貢献しているのである。 後編に続く |
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■■本の紹介■■ 古代エジプトの金の採掘から、現代の太陽電池の開発まで、53の「物」の歴史についての考察。 書 名:『物が語る世界の歴史』 著 者 :綿引 弘(わたひき ひろし) 出版社:聖文新社 定 価:2330円+税 |
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