良寛という方については、一つのイメージがあろうと思われます。穏やかで、小児
のように頬笑ましい、子供たちとよく遊んでいて、宗教人としては、何をしたか解ら
ぬ人、というイメージです。いい字をお書きになる、ということはご存知かもしれま
せん。
確かに、我々のような、物質文明の中に埋没して、精神性を失いつつ、毎日を追い
立てられるように生きている、そんな人種でおいででなかったことは確かです。
彼の「長歌(ちょうか)」の一つです。
さむしろに 衣かたしき うち寝れば 板敷きの間より
あしひきの 山下風(やましたかぜ)の いと寒く
吹きくる なべに あり衣(ぎぬ)を ありのことごと
ひき被(かつ)ぎ こいつまろびつつ ぬばたまの
ながきこの夜を いも寝かねつも
又、次のような短歌もあります。
あわ雪の中に顕(た)ちたる三千大世界(みちおほち)
またその中に沫雪(あわゆき)ぞ降る
越後、出雲崎の五合庵の生活は、いつもうらうらとした春の日ばかりではなかった
のです。事実新潟地方の、あの雪の降り方は、始まったが最後、終わるときがあるの
かと思われる。その世界の中で、彼は仏の途方もない大きさの世界を見つづけていた
のです。そしてそれは又、同時に食べるもの、生きる糧(かて)からの隔絶でもあっ
た……。
良寛論については、既に極めて多数の名著があることはご存知かと思われます。今
回は、それらを読了された中野孝次氏の「良寛の呼ぶ声」平7.6月、春秋社刊から
のご紹介であることを、お断りしておきます。
出雲崎の名家、橘屋山本家の長男として生まれたにもかかわらず出家、永平寺に学
び、すべてを捨てて諸国を行脚、遂に越後に戻って、自己の内部を見つづけつつ一生
を終わった方。
その間の漢詩、短歌、長歌、戒語、名跡の多さは、そのまま彼の人生、と言うより、
「人の世」への思いの深さを表している、と思われます。
自従一出家 ひとたび家を出でてより
蹤跡寄雲烟 しょうせき うんえんに寄す
或与樵漁混 あるいは しょうぎょと混じ
又共児童歓 又た児童と共にたのしむ
王侯曷足栄 王侯なんぞ栄とするに足らん
神仙亦非願 神仙もまた願う所にあらず
所遇便即休 あう所あればすなわち休す
何必嵩丘山 何ぞ必ずしも嵩丘山(すうきゅうざん)のみならんや
乗波日新化 波に乗じて日に新たに化し
優游可窮年 ゆうゆう 年をきわむべし
(注)嵩丘山:河南省登封県にある聖山、特に即天武后が神山として
尊崇し、多くの廟がある。
意味は平易なので、特に訳は加えませんが、「優游」という語については、自己を
見凝め続け、世俗の価値を越えた所に安定した境地、こだわりのない心のあり方、と
でも言えるのではないか、と思っています。
その至り到った状態が、次の有名な長歌だろうと思われます。
冬ごもり 春さり来れば
飯乞ふと 草の庵(いおり)を
立ち出でて 里(さと)にい行けば
たまほこの 道のちまたに
こどもらが 今を春べと
手鞠つく ひふみいむな
汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ
吾(あ)がつけば 汝(な)はうたひ
つきて唄ひて 霞立つ
永き春日を 暮らしつるかも
この里に手まりつきつつ子供らと
遊ぶ春日は暮れずともよし
霞立つながき春日を子供らと
手鞠つきつつこの日暮らしつ
なお、「良寛」については、上田三四二(みよじ)氏の諸作、唐木(からき)順三
「良寛」(筑摩書房)、谷川敏朗「良寛の生涯と逸話」「良寛の書簡集」ともに、(恒
文社)、水上勉「良寛」(中央公論社)、吉野秀雄「良寛」(筑摩書房)、入矢(いりや)
義高「良寛詩集」(講談社)、斉藤茂吉「良寛和歌私鈔」(?)、吉本隆明「良寛」(春
秋社)etc,があります。
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