No.257 −山を降りて−



              秋 立 つ
                      神保 光太郎

               山を降りて                                             
               背嚢(リュック)を絆いた夜                             
               私はもう                                               
               再び山に帰りたくなってゐた                             
               壁に                                                   
               陳(なら)んでゐるかずかずの書物も                     
               みんな                                                 
               昨日(きのう)までくらしてゐた山の貌(かたち)となって 
               私を呼ぶのであった                                     
               ひさしぶりでむかった机の木理(もくり)に               
               私は                                                   
               渓谷を描き                                             
               高原を感じ                                             
               鶯の鳴く山系図を想ふのであった                         
               ――山と別れるがいい                                   
               ――なぜ別れねばならぬか                               
               私は                                                   
               終夜(よもすがら)                                     
               神とこんな対話をくりかへしてゐた                       
               外は沛然たる雨であった                                 
               雨と闇とをついて                                       
               私は遠く                                               
               晴れ渡った山脈地方を夢みてゐた                         

                     (「山の詩集」串田孫一・田中清志編、
                      筑摩書房、'91 7月初版)


                  峠
                       石 垣 り ん

     時に 人が通る、それだけ                                                   
                                                                                
     三日に一度、あるいは五日、十日にひとり、ふたり、通るという、それだけの―― 
                                                                                
     ――それだけでいつも 峠には人の思いが懸かる。                             
                                                                                
     そこをこえてゆく人                                                         
     そこをこえてくる人                                                         
                                                                                
     あの高い山の                                                               
     あの深い木蔭の                                                             
                                                                                
     それをわかぬ小径を通って                                                   
     姿もみえぬそのゆきかい                                                     
                                                                                
     峠よ、                                                                     
     あれは峠だ、と呼んで、もう幾年こえない人が                                 
     向こうの村に こちらの村に 住んでいることだろう                           
                                                                                
     あれは峠だ、と 朝夕こころに呼んで。                                       

                                                              (同 上 書)

   私にとって、「山」も「峠」も、自分の足で参加できない所であるだけに、常に心
  の中から離れません。
     毎年、必ずとり上げて、この季節を飾るのは、その為です。もう一つ、必ず取り上
  げてきたことについては、ご存じのとおり、「鎮魂」の話題。
   人の「あこがれ」は、手の届かぬ恋の如きもの、というべきでしょう。本物の恋の
  方は、私の年令になれば、単なる歴史に過ぎませんが、「あこがれ」の方はまだまだ
  ……。

   いつも、何かを求め、心を遊ばせていること。大切なことだと思いますヨ。



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