No.107 −ネロ−


   良い季節になりました。朝早くのジョギングの人も、犬の散歩の人も、のびのびと
  爽やかに歩いています。

           ネロ −愛された小さな犬に−

                        谷川 俊太郎

               ネロ                                                     
               もうじき又夏がやってくる                                 
               お前の舌                                                 
               おまえの眼                                               
               お前の昼寝姿が                                           
               今はっきりと僕の前によみがえる                           
               お前はたった二回程夏を知っただけだった                   
               僕はもう十八回の夏を知っている                           
               そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している
               メゾンラフィットの夏                                     
               淀の夏                                                   
               ウィリアムスバーグの夏                                   
               オランの夏                                               
               そして僕は考える                                         
               人間はいったいもう何回位の夏を知っているのだろうと       
                                                                        
               ネロ                                                     
               もうじき又夏がやってくる                                 
               しかしそれはお前のいた夏ではない                         
               又別の夏                                                 
               全く別の夏なのだ                                         
                                                                        
               新しい夏がやってくる                                     
               そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく               
               美しいこと みにくいこと 僕を元気づけて くれるようなこと 僕をかなしくするようなこと
               そして僕は質問する                                       
               いったい何だろう                                         
               いったい何故だろう                                       
               いったいどうするべきなのだろうと                         
                                                                        
               ネロ                                                     
               お前は死んだ                                             
               誰にも知れないようにひとりで遠くへ行って                 
               お前の声                                                 
               お前の感觸                                               
               お前の気持ちまでもが                                     
               今ははっきりと僕の前によみがえる                         
                                                                        
               しかしネロ                                               
               もうじき又夏がやってくる                                 
               そして                                                   
               僕はやっぱり歩いてゆくだろう                             
               新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ 春をむかえ  更に新しい夏を期待して
               すべての新しいことを知るために                           
               そして
               すべての僕の質問に自ら答えるために  

                                                    (「二十億光年の孤独」・昭27)

   みずみずしい感性の輝く作品。
   ネロのいた夏は、まだ少年の夏で、ネロのいない夏は、次の時代へと歩き始めた夏。
  その夏の違いのいろいろに、様々な夏が思い出されているのですが、解説をして居ら
  れる安藤靖彦氏(吉田精一・分銅惇作編「近代詩鑑賞辞典」)によれば、
     メゾンラフィットの夏→マルタン・デュガールの「チボー家の人々」に出てくる夏
   淀の夏→谷川俊太郎の母の実家の夏
   ウィリアムスバーグの夏→アメリカ映画「裸の町」の夏
   オランの夏→カミュの「ペスト」に出てくるアフリカの夏

   を指しているようです。
  いずれも、(ただし、「淀」を除いて)私にとっても思いの深いものばかりで、谷川
  氏の送った時代が共感されます。

   ついでに、これ又蛇足ですが、このネロというのは、谷川氏の隣の家で飼われてい
  た犬で、彼の家にいつも遊びにきて可愛がられていた犬だそうです。

「はな・ひと・こころ」へもどる