No.110 −芍薬−



   ちょっと、時期が遅くなってしまいましたが、やはり御紹介したかったので……。

              ふ と
                    吉原 幸子
                      (さちこ)

                   なにか とてもだいじなことばを        
                   憶ひだしかけてゐたのに                
                                                         
                   視界の左すみで                        
                   白い芍薬の花が                        
                   急に 耐へきれないやうに              
                   無惨な 散りかたををしたので          
                                                         
                   ふり向いて                            
                   花びらといっしょに                    
                   そのまま ことばは 行ってしまった    
                                                         
                   いつも こんなふうに                  
                   だいじなものは 去ってゆく            
                   愛だとか                              
                   うつくしい瞬間(とき)だとか          
                   何の秘密も 明かさぬままに            
                                                         
                   さうして そこらぢゅうに              
                   スパイがゐるので                      
                   わたしはまた 暗号をつくりはじめる    
                   ことばたちの なきがらをかくして      
                                  (「夏の墓」昭51) 


   詩は、嘱目や吟行で生まれるものもあるのでしょうけれど、大部分は、心に残って
  いることの自分流の再生です。
     それは、うっかりすると、把えられないままにうしなわれて、口惜しい思いを噛み
  しめたり、そういえば、何だっけ、何だっけ、確かあの時は…、と切れた糸を手繰る
  思いをしたりします。
     だから、それは、自分流の、自分だけの「暗号」なのです。


   今の季節は、栴檀(せんだん)と桐。

                山桐の花
                        深尾 須磨子

                   みどりの風の切ないときに、                        
                   山桐の花の散る夕べだ。                            
                                                                     
                   静けさに甦るむかしの口笛を、                      
                   しかと聞きとめるさとい耳。                        
                                                                     
                   騒ぐ胸、はやる胸、                                
                   どうしようかと苦しい胸。                          
                                                                     
                   さあ、誰か貫いてください、光った針で、            
                   これ、ここのをどるところを。                      
                                                                     
                   うたへばまさる悩ましさを、                        
                   なほつのらせてかへる反響。                        
                                                                     
                   ああ 血が、                                      
                   ただ一滴の血が見たい。                            
                                     (「焦 躁」大14) 


   梅雨を前にした、夏になりそうな、まだのような、そんな時……、体調は崩れやす
  いものです。

   お大事に。



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